どこから見るか👁
おはようございます
美味しいものを食べててもカメラを向けられたら変な顔をしてしまう橋本由羽です
今日は随想録です
今日も随想録です
ものごとを
どこから見るか👀について…
最近読み始めた哲学の本、(て言っても1ページに文章がいっぱいでまだ15ページ)
ミッシェル・セール『五感 混合体の哲学』
これはパッと見、難しい文章が並んでるようでけっこうわかりやすく
その中におもしろい例え話がありました
あなたが爪切りをするときを想像しなさい。右の爪を切るとして、左手で爪切りを持ち右手は固定して切っていく。
そのときあなたの意識は左手の爪切りに接触面にあり、魂は左手側である爪切りの刃(正確には右の爪と刃の接地面)にある。
つまり右の爪を切っていても、右の爪と右手において、魂は宿っていない。
この話のあと筆者は、接触と意識、意識と感覚、そして魂について広げていき、述べていっています。
これを読んで私は
何か人前に立って演奏する、パフォーマンスや話をするときに、「接触・意識・感覚・魂」はどこにあるだろうか?どこにあることが自分の理想だろうか?と考えました
演奏の場合は、
- 接触 自分の「指」のは「鍵盤」にある、じぶんの「お尻」はイスにあり、足はステージにある。身体は服を着て靴を履いている。靴はペダルを踏んでいる。
- 意識 音楽の諸要素、「フレーズ」「音色」「リズム」にある。
- 感覚 音色が飛んだ先の「ホールの響き」を受け取る。ピアノから出る音の「床の振動」を感じる。客席にいる「お客さん」の息遣いを感じる。
- 魂 亡くなった作曲家とその人々の意思、この世の根源であるものたちが眠る「天」にある。
これが、今の段階でウソがなく体感したことのある、一番理想的な状態でした
そこに加えて、例えば身体の様々な連結・筋肉の律動や関節の配置などの根拠からくる、より俯瞰的な身体における要素と、
音楽の構成様式(ソナタ形式だとか)を大きく遠い目線から捉える見方、
またそれを音楽歴史の中でどう位置付けられるかというマッピング、、、などなど
があれば、更なる境地が待っていそう!!だと思いました
というか、こうやって
自分が捉えたことがない意識や感覚を探していくこと
こそが、修行ではないか🔥である🔥と結論付けました
文章にしたらスッキリした。
今日もゆっくり弾いていこう🎹
週のはじめにフライパンで火傷したり(これがけっこう痛かった)
炎症で右耳が聴こえづらくなったり(耳鼻科の治療がけっこう痛かった笑)
体質で腹痛と頭痛に襲われたりと
なんか生きてるなという感じがする今週でした😄🍩
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